工藤めぐみ/Megumi Kudo Interview #01
19歳でリオへ!
本場の舞台で続く挑戦
サンバダンサー
工藤めぐみ
写真・文 Hiroyuki Chiba
ブラジル リオ・デ・ジャネイロで開催されるサンバカーニバルは、単なるパレードではなく、各チームが生活を捧げて準備をし、優勝を競い合うコンテスト。メッセージ性や芸術性も問われます。1チームが4000人以上で構成される中で「パシスタ」と呼ばれるトップダンサーとして優勝を経験した日本人、工藤めぐみさん。その快挙を成し遂げた軌跡には、19歳の夏の大きな一歩がありました。単身ブラジルへ渡っての6か月間のダンス修行とリオの街での時間が、ダンサーとして人としても大きな経験に。 2015年のカーニバルでもトップチーム「サウゲイロ」のパシスタとして準優勝に貢献、日本では数々のショーに出演されると共にダンススクールで後進の指導にあたる工藤さんにお話しをうかがいました。
※インタビュー:2015年7月21日
母と始めたサンバ
工藤さんの出身地、神戸はブラジルと縁が深く、1908年(明治41年)にブラジルへの第1回目の移民780余名を乗せた笠戸丸が神戸港から出航した歴史があります。また、リオ・デ・ジャネイロと神戸は姉妹都市になっています。神戸で育った工藤さんがサンバに出会ったのは9歳の時でした。
「母と一緒に習い始めました。先生は元宝塚でサンバをやっていた方で、娘さんはクラシックバレエを教えられていたので、サンバとバレエを両方習っていました。練習や発表会では、白いバレエの衣装からすぐにサンバの衣装に着替えてウィッグを付けて踊っていました。バレエは全てのダンスの基礎になるので、回転の軸など基礎があると全然違います。ブラジルへ行った時も、その点を褒められたので、バレエもやっていて本当に良かったと思いました。」
19歳、初めての海外渡航でリオへ
サンバを続けるうちにブラジルへ行きたいという思いが強くなっていった大学1回生の夏、工藤さんは一歩を踏み出しました。
「子どもの時からのお年玉や高校生の時にしたアルバイトなどでお金を貯めて、大学へ入った年の後期を休んで半年間ブラジルへ行くことにしました。入学してすぐに先生にそれを伝えると『工藤さんはなんで大学に入ったんかな?』と言われましたが(笑)、教室を開こうと思っていたので、教えるからには本場のサンバを知らなければならないと考え、10代の時にできることとしてその時に行く決心をしました。」
渡航を決めた後に不安な気持ちが出てきたことがありましたが、背中を押してくれたのは母の妙子さんでした。
「初めての海外、初めての一人暮らしになることを考えると、今までずっと一緒だった家族と離れて、言葉も通じないので怖くなり、『行くの止めようかな』とふと車の中で言ったら、母に『何言ってるの、18歳でこれから何にだってなれるんだから、やれる時にどうしてやらないの。私が行きたいくらいやわ。』と言われて、『よし、がんばろう』と思いました。」
無視されても自分から近づいていった
生活するだけでも大変な中、工藤さんはサンバチームの練習に参加し、少数のトップダンサーだけがなれる「パシスタ」として出場を目指しました。
「最初は日本から何しに来たのかという目で見られましたが、片言で『パシスタ、パシスタ』と言ってパシスタのオーディションを受けたいことを伝え練習に参加しました。パシスタになれる人数は決まっているので、私がなるとブラジル人の誰かが外れてしまうため、最初は他のメンバーから無視されたり、踊っている時に押されたりしました。でも、自分から近づいていって、話しかけたり、日本の歌を歌ったり、日本語を教えたりしているうちに日本に興味を持ってくれましたし、遠い日本から来てブラジルの文化を学ぼうとしてくれているんだとわかってもらえて受け入れてくれるようになりました。両親が本番の時にリオへ来るという時もみんな歓迎してくれましたね。」
「本番1か月くらい前の練習の時に靴のサイズを聞かれたので、出ることができるかしれないと思いました。」
SAMBAスペシャルチーム 「G.R.E.S Portela」「G.R.E.S Tradicao」のオーディションに合格し、パシスタとしてリオのカー二バルに出場を果たします。帰国後は大学で半年間の遅れを取り戻し、休学せず4年間で卒業。ダンスの方も「躍動感が全然違う」と周囲から言われるほど踊り方が変っていたそうです。
2008年に再びリオ・デ・ジャネイロへ行くと、別のトップチーム「G.R.E.S. Academicos do Salgueiro(サウゲイロ)」のオーディションを新たに受け、2009年のカーニバルにパシスタとして出場、日本人ダンサーとして初の優勝を経験しました。以後サウゲイロでは唯一ブラジル以外の国出身のパシスタとして出場を重ねています。
本物のサンバを見せたい
初めてのブラジル修行から10年が経ちました。
「今年で10年になりましたが、もっと成長できると思っているので、新しいことに挑戦していきたいです。ブラジルで所属しているサウゲイロというチームは、今のサンバの流れを作っていて注目されているチームです。サウゲイロのパシスタのパフォーマンスや衣装も注目されますので、どんどん新しいことを取り入れていきたいです。2016年のカーニバルは特に力を入れて準備をしています。」
2016年はリオ・デ・ジャネイロ五輪も控えており、世界の目がブラジルへ集まります。姉妹都市である神戸出身のダンサーとして、工藤さんにはブラジルへ行って自分が得たことを日本に伝えたいという思いがあります。
「日本ではサンバはセクシーな恰好で踊るお祭り騒ぎのようなイメージがありますが、リオでは年に一度のコンテストのために、週に何度も仕事を終えてから朝まで練習したり、給料の3か月分の衣装を用意したりして人々が生活をかけています。サンバチームは向こうでは「エスコーラ・ジ・サンバ」と言いますが、“エスコーラ(Escola)”は学校という意味です。大人から子どもまでが練習する中で、ダンスや楽器だけでなく、挨拶や礼儀を教え、叱る時もあれば、褒める時もあり、学校そのものだと思います。サンバを楽しむスタイルは色々ありますが、私はリオの本場のサンバを伝えたいです。」
サンバはコミュニティの中の学校のようなものとして根付いていることも、リオへ行って学んだことだと言います。工藤さんが日本で主催しているサンバ教室でも、それを実践し工藤さんを中心に子どもと大人がコミュニケーションをとりながらレッスンを受けているそうです。
一歩踏み出した先に素晴らしい出会いがある
これから海外へ行こうとする人たちへメッセージをいただきました。
「19歳の時にリオに本当に行って良かったと思っています。あの時の経験が自信になっていますし、一人で海外に行ったことで親のありがたみ、友だちの大切さを実感しました。あの時行かなかったら今の自分は絶対にいないので、辛いこともたくさんあったけれど良い経験でした。 最初の一歩はなかなか重いけれど、一歩踏み出した時に出会った人たちは本当に特別な存在です。行けば絶対に成長できるし、悩んでいるならば行った方が良いです。本当に楽しいですよ。」
送り出す母親としてのお気持ちも妙子さんにおうかがいしました。
「今と比べると当時は情報が全然無くて、リオ・デ・ジャネイロがどんな所かわからなかったのもあって行かせることができたと思います。今だったら少しは心配していたでしょう。でも、やはり『かわいい子には旅をさせろ』と言うように、そばに置いておくだけが愛情ではないと思いますし、一人でがんばれる力をつけさせてあげることが大事だと思います。それが親の安心にもつながるのではないかと思います。後悔しないようにチャレンジして欲しいです。」
工藤さんの衣装は母 妙子さんの手作り。 家族でリオとサンバに魅了され今も共に踊る。
Profile
工藤めぐみ/Megumi Kudo
9歳よりクラシックバレエを基礎にサンバを始める。10代でダンスインストラクターになると共に、19歳で単身、本場ブラジルへ6か月間の修行に出る。SAMBAスペシャルチーム 「G.R.E.S Portela」「G.R.E.S Tradicao」のオーディションに合格し、パシスタ(少数のトップダンサー)としてリオのカー二バルに出場。
2008年秋、同じくスペシャルチームの中でも人気高い「G.R.E.S. Academicos do Salgueiro(サウゲイロ)」のパシスタに合格。2009年のカー二バルでは日本人パシスタとしては史上初、チーム優勝に貢献。サウゲイロ16年ぶりの優勝に華を添えた。その後、2010年、2011年、2013年、2014年、2015年、2016年とリオのカーニバルにSalgueiroのパシスタとして出場。2014年、2015年のリオのカーニバルでもチーム準優勝を果たす。また、同チームの選抜で構成されるショーメンバーとしても唯一の日本人として活躍中。
帰国時は、活動拠点の神戸にてダンス教室「MEGUサンバダンス」を主催し、神戸のサンバチーム「BLOCO Feijao Preto(ブロコ フェジョンプレット)」のダンサーリーダーを務め、精力的に活動中。神戸まつり、浅草サンバカーニバルなど数々のイベント、ショーに出演。BLOCO Feijao Pretoは「サンバフェスタKOBE」で6年連続最優秀賞を受賞。
※プロフィールはインタビュー時のもの
♪ブログ 「O Samba é Minha Vida!! サンバな人生 from RIO」
Editor's Note
今回のインタビュー記事は、訳あって、以前おこなった2015年のインタビューを再構成して掲載しました。
工藤さんと初めてお話しをした後、こんな人こそ『情熱大陸』に出べきだと強く思ったものです。大学生活よりも、不便な暮らしの中でサンバを学ぶことを選んだその情熱、そして来年はリオオリンピック。絶好のタイミングでした。そんな風に思っていたところ、『情熱大陸』に関連した講演イベント「情熱教室」が開かれることを知ったのです。その中には、『情熱大陸』のプロデューサーも登壇する講演があり、それに申し込んだ私は、そのプロデューサーの執筆した本を読み、その本に書いてあった企画書の書き方を参考にして、工藤めぐみさんを『情熱大陸』で取り上げるべきだという企画書を持参して参加しました。講演の途中で「皆さんだったら誰を出したいですか?」と客席に問いかける時がありました。なんと良いフリをしてくれるのか。最初は隣の席の人と話してみてください、ということになり、隣の人に、企画書作ってきたんですよ、と話すと、いい!と言ってくれたので、全体から意見を募ったとき、手を挙げて(!)、学校の授業では全く手を挙げなかった私が意を決して手を挙げて、公開直談判をしたのです。正直、その場ではあまり良い反応は得られなかったのですが、講演が終わってからタイミングを見計らって持ってきた企画書をプロデューサーに手渡しすることができました。しかし、その後何も音沙汰無し。仕方ないです、講演でも毎月1000人ほどの取材対象者の企画書が上がると話していたし、その中から年に40回ほどの放送ですから。それから数か月、再びリオに渡航していた工藤さんから連絡が来て、『情熱大陸』の話が進んでいると言うではありませんか!なに!本当に?! それは私の企画書のおかげではなく、神様の力が働いたような巡り合わせにより、『情熱大陸』出演が決まったのです。事の詳細は2016年2月当時の工藤めぐみさんのブログをご参照ください。企画は動き出しても、カーニバルの映像が使えるかなど色々と課題はあって本当に放送されるのかドキドキワクワクしながら待っていました。そして、前の週の放送の最後、次週の予告が。「来週は、リオに愛された日本人、サンバダンサー工藤めぐみ」あのナレーターの窪田等さんの声でそんな感じのフレーズが流れた時、自分のことのように嬉しく、本当に感動しました。2016年2月28日『情熱大陸』サンバダンサー 工藤めぐみ 放送。感無量でした。
ついでにもう一つ逸話を。もう時間が経ったのでお話ししてよいと思うのですが、『情熱大陸』の製作関係の方から、現地ではサンバダンサー姿の工藤さんの写真しかあまり撮らなかったので、このインタビュー記事のトップの写真をオープニングタイトルに使わせてもらえないかと打診がありました。結局はやはり現地の雰囲気が伝わる写真が使われたのですが、もしかしたらこのインタビューの時の写真が、ティティ、ティーティーティー〜🎵 と言うメロデイにのせてTVに映ったかもしれなかったのでした。そんなこともあり、このインタビューは私にとっても大変思い出深い、夢を叶えてくれたようなインタビューです。(H)
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