INTERVIEWS

リオの地に和の花咲く

リオ五輪開閉会式に出演した日本人

サンバダンサー

工藤めぐみ

文・写真 HIROYUKI CHIBA


2016年夏、サンバの街ブラジル リオ・デ・ジャネイロで南米初のオリンピック・パラリンピックが開催。 競技と共に注目されるオリンピックの開会式には、一人の日本人女性の姿がありました。 工藤めぐみさん ― 日本からリオのカーニバルに出場を続けているサンバダンサーです。 現地の人々の中に飛び込み、リオ五輪を共に盛り上げ、次の東京へつなげるメッセージを発信。 リオと東京の架橋となるために情熱を傾けた熱き3か月について工藤さんに再びお話をうかがいました。


リオでのオーディションに合格!五輪開会式へ

国の総力を挙げて披露するオリンピックの開会式。自国開催ならまだしも、他国で開催されるオリンピックの開会式に出るなんて、どうやったらできるのでしょうか。実現させたのは、工藤めぐみさんのリオへの愛と行動力でした。

「リオの次のオリンピックが東京に決まった時から、日本とブラジルの架橋になるために何かやりたいとずっと思い続けていました。ブラジルにいる友人から開会式のダンサーオーディションがあると聞き、日本からエントリーしました。オーディションでは「リオと日本の架橋になりたい」という気持ちを伝えました。2015年の12月にオーディションを受けて、2016年の2月に合格したことを知らされました。ただ、開会式の内容はトップシークレットということで、その時はまだ自分が何をするのかはわかっていませんでした。最初の練習が、5月27日から始まると連絡を受け、渡航しました。本番までに24回の練習があり、1回の練習は6時間から8時間でした。

滞在中は、カーニバルで所属しているサンバチーム「サウゲイロ」のショーにも呼んでもらっていたので、そちらにも出ていました。開会式の練習を午後1時から9時までして、練習後に友人の部屋でシャワーを浴びさせてもらい、サンバのメイクをして11時からのサウゲイロのショーに向かうという生活で、体力的に結構きつかったです。オリンピックが始まる前は、リオについてネガティブな報道を多く耳にしたので、実際はもっとこんな楽しい面もあるということも伝えたいと思い、帰宅後はブログに現地の様子を書いていました」


数か月間のリオ滞在は毎年のカーニバル出場の際に経験している工藤さんですが、今回はオリンピック開催期間という特別な時期の滞在だった為、いつもとは違う街の様子や人との交流があったそうです。

「今回は滞在の前半はサンバを切り離して、色々体験してみようと思っていました。サンバで行くのとは違う他のファヴェーラ(貧困地区)に行ってみたり、初めてイパネマやコパカバーナの近くでルームシェアをしたり、いつもとは違う生活でした。今回は改めてリオを見た気がします。

街には警察官がたくさんいました。日本からの報道陣も大勢来ていて、それまで日本人をそんなにリオで見ることはなかったので、いつもとは違う雰囲気でした。他の外国人もたくさんいて、英語が飛び交っていました。私の住んでいた近くにフランス人の経営するカフェがありましたが、そこにはフランスの報道陣や選手などが集まっていました。

サンバで関わる人たちとは違う人たちと仲良くなれたことも、今回の滞在で大きな部分でした。私たちのダンサーチームには体育大学の学生など色々な人がいましたが、集まったメンバーはみんなオリンピックを盛り上げようという一心でした。何回も練習を重ねるうちに絆も強くなり、通しのリハーサルの時には泣いている人もいました。 『絶対盛り上がる!』 と、とにかく前向きな気持ちの人たちで、懇親会もして、とても仲良くなれました。」


そしていよいよ開会式本番を迎えます。リオ五輪開会式の演出を担当したのは、映画「シティ・オブ・ゴッド」の監督フェルナンド・メイレレス氏。開会式が行われる時間は、日本では広島に原爆が投下された時間に重なっていました。IOCの規定により黙祷を捧げる案は実現に至りませんでしたが、メイレレス氏は日本への思い、平和への祈りを演出に込めました。日本時間8月6日午前8時15分、リオ・デ・ジャネイロのマラカナンスタジアムに工藤さんが立ちました。

「私の入ったチームは、25人で日系移民の歴史を表現する役割で、衣装は日の丸がモチーフにされていました。日本や広島の事を考えてくれているというのを聞いていたので、ありがたいことだし、大役だと感じていました。

当日は14時ごろ集合して、すぐにメイクをしてもらって、それから本番までの数時間は仲間たちと写真を撮ったり、『次の東京の時はメグの家に泊めてね』などと話をしたり、思い出に残る時間を過ごしていました。大会前はリオの様々な面が不安視されていましたし、練習をやっていても不安はありましたが、本番はきちっと合わせてうまくやる。それがブラジル人の気質なのかわかりませんが、通しのリハーサルを見て感動しました。

サンバの時は笑顔で踊りますが、今回の役では笑顔は少し違うと思い、凛として踊ることを意識しました。8万人収容のスタジアムなので、ものすごく多くの視線を感じました。すごい場所で踊らせてもらっている感謝の気持ちと、ここに日本人もいるから見て欲しいという気持ち、そして出演者が楽しめばお客さんも楽しんでくれるだろうということなど、色々なことを考えて踊っていました。開会式の最後に出演者が全員で踊る時には、思いきり楽しもうという気持ちで、感情も露わにしてみんなで盛り上がりました。サンバもたくさん踊って、気持ちが良かったです。ブラジル人も海外から来た人も、今回出会った人たちは特別な友人です。そういった交流は今回リオに来たからこそ出来たことなので、良い経験になりましたし、本当に来て良かったと思いましたね」


リオと日本の架け橋に ~感謝と感激のステージ~

開会式後も競技の観戦、そしてもう一つの大役を担うために工藤さんのリオ滞在は続きました。 「TOKYO2020 JAPAN HOUSE」という次の開催地である日本の魅力をアピールするブースでのステージと、東日本大震災時の支援に対する感謝と復興を伝えるため東京都が主催した「TOHOKU & TOKYO in RIO」への出演です。長年、「リオと日本の架橋になりたい」と思い続けてきた工藤さんにとって、念願のステージになりました。

「開会式が終わったあと、いくつかの取材を受けて朝の6時ごろになりましたが、9時から始まるバレーボール女子の試合を見に行きました。その後も、水泳、体操、テニス、柔道と観戦して日本人選手が次々とメダルを獲得する場面を身近に見ることができて感動の日々でした。少しでも日本人の応援が届けばと思い、精一杯応援を頑張りました。

開会式はサンバではありませんでしたが、8月17日と18日に行われた2つのステージではサンバを躍らせていただきました。JAPAN HOUSEのステージでは最後はブラジルの方、世界から集まってきていた会場の皆さんと全員手をつないで輪になって踊り、すごく盛り上がりました。その翌日に開催された「TOHOKU & TOKYO in RIO」には、私自身が神戸で阪神淡路大震災を経験したのをきっかけにサンバで元気をもらって、今はサンバで皆さんに元気を与えられるように活動していることを知っていただけたご縁があり、呼んでいただきました。なぜ私が今ここにいるのか、「次の東京にもぜひ来てください!」ということをお話しさせていただきました。リオで次の2020年につながることをさせていただいて、まさに自分のやりたかったことなので、感激しました」

「TOHOKU & TOKYO in RIO」では神戸で所属するサンバチーム「ブロコ フェジョン・プレット」のメンバーと共に出演、日本人のみのチームがリオ・デ・ジャネイロでサンバショーを行うのはおそらく史上初とのこと。19歳の頃からインストラクターとしてサンバを教えてきた立場としても、生徒たちと共にリオでショーを行ったことは格別の思いであったと言います。

「一緒に来たメンバーも10年以上やっているダンサーたちなので踊りには自信がありましたが、自分だけではないいつもとは違うプレッシャーと、リオの文化として根付いたサンバを日本人だけでやることでどう受け止められるのか不安はありました。でも実際はとても喜んでもらえて、誇らしかったです。メンバーたちも良い経験をさせてもらったと言って喜んでくれたので、周りを巻き込んで出来たというのは本当に嬉しいことでした」


着物風にアレンジした衣装


この後も当初の予定になかった8月21日の閉会式にも出演。サンバショーとの合間に衣装の採寸や練習に参加するなどハードな日程をこなし、8月27日に日本へ帰国、約3か月の滞在を終えました(パラリンピックの観戦を希望するもビザの期限があるため断念)。帰国後もすぐに日本でのショーに出演、忙しい日々が続きます。

閉会式はブラジルカラーの衣装

海外に出てこそ分かる日本の良さ

2016年は、毎日放送『情熱大陸』やリオ五輪関連番組などマスメディアへの出演が増え、リオ五輪と共に工藤さん自身にも注目が集まりました。リオ五輪が終わった今、これから何を目指すのか、2020年の東京へ向けてリオを経験した立場から何を思っているのか伺いました。

「今回リオでオリンピック・パラリンピックがあって、『リオ=サンバ』というイメージがあるので、色々と取り上げていただきましたが、9歳からサンバを始めて20年以上経って、本当にやっと日の目を見るというか、やっと伝わったなぁという気持ちです。ブログに『工藤さんを見て私も東京オリンピックで何かやってみたいと思いました』というメッセージをいただいたり、フェジョン・プレットに新しいメンバーが急に増えたり、サンバを見てもらえるきっかけになったと思うのでありがたいです。

私が出ているから開会式を見たと言ってくれる方もいて、自分の存在が日本の方の目をリオに向けさせたと思うと、とても嬉しいです。今回オリンピックに関わらせていただいてとても楽しかったですし、次は日本の東京でまた開催されるのかと思うとワクワクして仕方がありません。リオでのオリンピック・パラリンピックでこれだけ楽しかったのだから、自分の国で開催されるのはさらに嬉しいですね。海外を経験したからこそ、日本の良さがわかったので、日本の良いところをたくさん見て欲しいと思っています。ブラジル人は自分たちでもブラジル国旗を彩った服や「I ♥ RIO」というTシャツを着るくらい自分の国や街が好きな気持ちを出しているので、日本でもそれくらい出していいのではないかと思います。リオも東京も準備段階ではネガティブな報道も出ますが、実際その時を迎えたら絶対良いものができると確信していますし、私には楽しみしかないです。自分のできることで今からでもすぐ盛り上げていけたらいいなと思っています。

自分が滞在した経験からは、Wi-Fiがもっとどこでも使えるようになればいいなと思います。私も道の案内表示がわからなくて困ったので、そういう時に外国人にとってはWi-Fiにつなげて調べたり連絡を取れたりすると、とても便利です。今だとリオの方が日本よりもWi-Fiが普及しているくらいですが、携帯電話を道端で出していても盗られることのない日本でならもっと便利に使ってもらえるのではないでしょうか。ブラジルにいる間、何度も「日本は良い所だよね」って言ってもらえていたので、オリンピックを機にたくさんの人に日本に来てもらうと、その輪がもっと広がっていくと思います。

自分の今後については、やりたいことがたくさんあって困るくらいです。以前からリオの日本人学校で講演やサンバのレッスンをさせていただいていましたが、その学校の先生だった方が今は東京都のある中学校の副校長先生になられていて、そのつながりで3月に日本に帰国した際、オリンピックに関連した教育のモデル校の取り組みとして学校に呼んでいただきました。そこで自分が10代で海外に出て経験したことをお話させてもらいました。4年後には成長して活躍するであろう彼らに向けて、海外に出る良さを伝えることをこれからもたくさんやっていきたいと思っています。

サンバダンサーとしては、リオで所属しているサウゲイロの師匠が年々厳しくなるので、自分の居場所を得るためには努力を続けないといけませんが、あの場所にいさせてもらえるのはとても幸せなことです。日本では派手な衣装が注目されがちな従来のサンバに対するイメージがありますが、もっとアスリートの部分があることに注目してサンバを知ってもらいたいので、地元の神戸以外にも活動の幅を広げていけたらと考えています」


最後に、読者の方々へのメッセージをいただきました。

「海外に出ると、海外の良さも分かりますが、同時に日本の良さも分かります。私もリオへ行って、日本って本当に良いなと思えました。日本にいたら不満に思うことも海外へ行ってみたらとてもちっぽけなことで文句を言っていたなと思うこともありますし、やはり世界全体を見たら日本は平和な国で、日本では当たり前のことが海外では当たり前のことではありません。皆さんにもぜひ海外へ行って欲しいです。海外へ行ったらきっと『日本っていい所だよね』と言ってもらえると思うので、その時はぜひ日本の良さをもっともっと伝えてください」



Profile

工藤めぐみ/Megumi Kudo

9歳よりクラシックバレエを基礎にサンバを始める。10代でダンスインストラクターになると共に、19歳で単身、本場ブラジルへ6か月間の修行に出る。SAMBAスペシャルチーム 「G.R.E.S Portela」「G.R.E.S Tradicao」のオーディションに合格し、パシスタ(少数のトップダンサー)としてリオのカー二バルに出場。

2008年秋、同じくスペシャルチームの中でも人気高い「G.R.E.S. Academicos do Salgueiro(サウゲイロ)」のパシスタに合格。2009年のカー二バルでは日本人パシスタとしては史上初、チーム優勝に貢献。サウゲイロ16年ぶりの優勝に華を添えた。その後、2010年、2011年、2013年、2014年、2015年、2016年とリオのカーニバルにSalgueiroのパシスタとして出場。2014年、2015年はチーム準優勝を果たす。また、同チームの選抜で構成されるショーメンバーとしても唯一の日本人として活躍中。

帰国時は、活動拠点の神戸にてダンス教室「MEGUサンバダンス」を主催し、神戸のサンバチーム「BLOCO Feijao Preto(ブロコ フェジョンプレット)」のダンサーリーダーを務め、精力的に活動中。神戸まつり、浅草サンバカーニバルなど数々のイベント、ショーに出演。BLOCO Feijao Pretoは「サンバフェスタKOBE」で6年連続最優秀賞を受賞。

2016年リオ・デ・ジャネイロ オリンピック開会式、閉会式に出演。 同地での「TOKYO2020 JAPAN HOUSE」「TOHOKU &TOKYO IN RIO」に出演。

主なメディア出演

2016年1月 NHKサンデースポーツリオ五輪特集出演

2016年2月 毎日放送『情熱大陸』出演

2016年5月 日本テレビ『ナカイの窓』出演

その他リオ五輪関連番組多数

ブログ 「O Samba é Minha Vida!! サンバな人生 fromRIO」

フェジョン・プレット 公式HP  

※インタビュー当時




Editor's Note

 最初のインタビュー以来、工藤さんと再び直接お話をしたのは2016年の5月に開催された神戸まつりの会場でした。工藤さんの日本での所属チーム「フェジョン・プレット」の出番が近づくと、音楽隊「バテリア」がリズムを奏で、「フェジョン、プレット! フェジョン、プレット!」とチームのみんなが掛け声をあげて盛り上がる中心に工藤さんの姿を見ました。リオでの厳しい修行と本番のカーニバルを経験してきた工藤さんが、日本でも変わらず情熱的にチームを鼓舞している、その姿に感動したのを覚えています。ー本場のサンバを日本に伝えたいーそう言っていた前回のインタビューから1年近くが経って、情熱大陸出演があったり、リオ五輪開会式出演が決まって注目されることが多くなっていましたが、色々な変化はあっても、工藤めぐみさんはその言葉の通り、日本でも全力を捧げてとても輝いていました。リオ五輪開会式の練習に参加するためにブラジルへ渡航する直前のことです。

19歳でリオへ!

本場の舞台で続く挑戦

サンバダンサー

工藤めぐみ

写真・文 Hiroyuki Chiba



ブラジル リオ・デ・ジャネイロで開催されるサンバカーニバルは、単なるパレードではなく、各チームが生活を捧げて準備をし、優勝を競い合うコンテスト。メッセージ性や芸術性も問われます。1チームが4000人以上で構成される中で「パシスタ」と呼ばれるトップダンサーとして優勝を経験した日本人、工藤めぐみさん。その快挙を成し遂げた軌跡には、19歳の夏の大きな一歩がありました。単身ブラジルへ渡っての6か月間のダンス修行とリオの街での時間が、ダンサーとして人としても大きな経験に。 2015年のカーニバルでもトップチーム「サウゲイロ」のパシスタとして準優勝に貢献、日本では数々のショーに出演されると共にダンススクールで後進の指導にあたる工藤さんにお話しをうかがいました。

※インタビュー:2015年7月21日


母と始めたサンバ

工藤さんの出身地、神戸はブラジルと縁が深く、1908年(明治41年)にブラジルへの第1回目の移民780余名を乗せた笠戸丸が神戸港から出航した歴史があります。また、リオ・デ・ジャネイロと神戸は姉妹都市になっています。神戸で育った工藤さんがサンバに出会ったのは9歳の時でした。

「母と一緒に習い始めました。先生は元宝塚でサンバをやっていた方で、娘さんはクラシックバレエを教えられていたので、サンバとバレエを両方習っていました。練習や発表会では、白いバレエの衣装からすぐにサンバの衣装に着替えてウィッグを付けて踊っていました。バレエは全てのダンスの基礎になるので、回転の軸など基礎があると全然違います。ブラジルへ行った時も、その点を褒められたので、バレエもやっていて本当に良かったと思いました。」


19歳、初めての海外渡航でリオへ

サンバを続けるうちにブラジルへ行きたいという思いが強くなっていった大学1回生の夏、工藤さんは一歩を踏み出しました。

「子どもの時からのお年玉や高校生の時にしたアルバイトなどでお金を貯めて、大学へ入った年の後期を休んで半年間ブラジルへ行くことにしました。入学してすぐに先生にそれを伝えると『工藤さんはなんで大学に入ったんかな?』と言われましたが(笑)、教室を開こうと思っていたので、教えるからには本場のサンバを知らなければならないと考え、10代の時にできることとしてその時に行く決心をしました。」

渡航を決めた後に不安な気持ちが出てきたことがありましたが、背中を押してくれたのは母の妙子さんでした。

「初めての海外、初めての一人暮らしになることを考えると、今までずっと一緒だった家族と離れて、言葉も通じないので怖くなり、『行くの止めようかな』とふと車の中で言ったら、母に『何言ってるの、18歳でこれから何にだってなれるんだから、やれる時にどうしてやらないの。私が行きたいくらいやわ。』と言われて、『よし、がんばろう』と思いました。」


無視されても自分から近づいていった

生活するだけでも大変な中、工藤さんはサンバチームの練習に参加し、少数のトップダンサーだけがなれる「パシスタ」として出場を目指しました。

「最初は日本から何しに来たのかという目で見られましたが、片言で『パシスタ、パシスタ』と言ってパシスタのオーディションを受けたいことを伝え練習に参加しました。パシスタになれる人数は決まっているので、私がなるとブラジル人の誰かが外れてしまうため、最初は他のメンバーから無視されたり、踊っている時に押されたりしました。でも、自分から近づいていって、話しかけたり、日本の歌を歌ったり、日本語を教えたりしているうちに日本に興味を持ってくれましたし、遠い日本から来てブラジルの文化を学ぼうとしてくれているんだとわかってもらえて受け入れてくれるようになりました。両親が本番の時にリオへ来るという時もみんな歓迎してくれましたね。」

「本番1か月くらい前の練習の時に靴のサイズを聞かれたので、出ることができるかしれないと思いました。」

SAMBAスペシャルチーム 「G.R.E.S Portela」「G.R.E.S Tradicao」のオーディションに合格し、パシスタとしてリオのカー二バルに出場を果たします。帰国後は大学で半年間の遅れを取り戻し、休学せず4年間で卒業。ダンスの方も「躍動感が全然違う」と周囲から言われるほど踊り方が変っていたそうです。

2008年に再びリオ・デ・ジャネイロへ行くと、別のトップチーム「G.R.E.S. Academicos do Salgueiro(サウゲイロ)」のオーディションを新たに受け、2009年のカーニバルにパシスタとして出場、日本人ダンサーとして初の優勝を経験しました。以後サウゲイロでは唯一ブラジル以外の国出身のパシスタとして出場を重ねています。

本物のサンバを見せたい

初めてのブラジル修行から10年が経ちました。

「今年で10年になりましたが、もっと成長できると思っているので、新しいことに挑戦していきたいです。ブラジルで所属しているサウゲイロというチームは、今のサンバの流れを作っていて注目されているチームです。サウゲイロのパシスタのパフォーマンスや衣装も注目されますので、どんどん新しいことを取り入れていきたいです。2016年のカーニバルは特に力を入れて準備をしています。」

2016年はリオ・デ・ジャネイロ五輪も控えており、世界の目がブラジルへ集まります。姉妹都市である神戸出身のダンサーとして、工藤さんにはブラジルへ行って自分が得たことを日本に伝えたいという思いがあります。

「日本ではサンバはセクシーな恰好で踊るお祭り騒ぎのようなイメージがありますが、リオでは年に一度のコンテストのために、週に何度も仕事を終えてから朝まで練習したり、給料の3か月分の衣装を用意したりして人々が生活をかけています。サンバチームは向こうでは「エスコーラ・ジ・サンバ」と言いますが、“エスコーラ(Escola)”は学校という意味です。大人から子どもまでが練習する中で、ダンスや楽器だけでなく、挨拶や礼儀を教え、叱る時もあれば、褒める時もあり、学校そのものだと思います。サンバを楽しむスタイルは色々ありますが、私はリオの本場のサンバを伝えたいです。」

サンバはコミュニティの中の学校のようなものとして根付いていることも、リオへ行って学んだことだと言います。工藤さんが日本で主催しているサンバ教室でも、それを実践し工藤さんを中心に子どもと大人がコミュニケーションをとりながらレッスンを受けているそうです。



一歩踏み出した先に素晴らしい出会いがある

これから海外へ行こうとする人たちへメッセージをいただきました。

「19歳の時にリオに本当に行って良かったと思っています。あの時の経験が自信になっていますし、一人で海外に行ったことで親のありがたみ、友だちの大切さを実感しました。あの時行かなかったら今の自分は絶対にいないので、辛いこともたくさんあったけれど良い経験でした。 最初の一歩はなかなか重いけれど、一歩踏み出した時に出会った人たちは本当に特別な存在です。行けば絶対に成長できるし、悩んでいるならば行った方が良いです。本当に楽しいですよ。」

送り出す母親としてのお気持ちも妙子さんにおうかがいしました。

「今と比べると当時は情報が全然無くて、リオ・デ・ジャネイロがどんな所かわからなかったのもあって行かせることができたと思います。今だったら少しは心配していたでしょう。でも、やはり『かわいい子には旅をさせろ』と言うように、そばに置いておくだけが愛情ではないと思いますし、一人でがんばれる力をつけさせてあげることが大事だと思います。それが親の安心にもつながるのではないかと思います。後悔しないようにチャレンジして欲しいです。」


工藤さんの衣装は母 妙子さんの手作り。 家族でリオとサンバに魅了され今も共に踊る。



Profile

工藤めぐみ/Megumi Kudo

9歳よりクラシックバレエを基礎にサンバを始める。10代でダンスインストラクターになると共に、19歳で単身、本場ブラジルへ6か月間の修行に出る。SAMBAスペシャルチーム 「G.R.E.S Portela」「G.R.E.S Tradicao」のオーディションに合格し、パシスタ(少数のトップダンサー)としてリオのカー二バルに出場。

2008年秋、同じくスペシャルチームの中でも人気高い「G.R.E.S. Academicos do Salgueiro(サウゲイロ)」のパシスタに合格。2009年のカー二バルでは日本人パシスタとしては史上初、チーム優勝に貢献。サウゲイロ16年ぶりの優勝に華を添えた。その後、2010年、2011年、2013年、2014年、2015年、2016年とリオのカーニバルにSalgueiroのパシスタとして出場。2014年、2015年のリオのカーニバルでもチーム準優勝を果たす。また、同チームの選抜で構成されるショーメンバーとしても唯一の日本人として活躍中。

帰国時は、活動拠点の神戸にてダンス教室「MEGUサンバダンス」を主催し、神戸のサンバチーム「BLOCO Feijao Preto(ブロコ フェジョンプレット)」のダンサーリーダーを務め、精力的に活動中。神戸まつり、浅草サンバカーニバルなど数々のイベント、ショーに出演。BLOCO Feijao Pretoは「サンバフェスタKOBE」で6年連続最優秀賞を受賞。

※プロフィールはインタビュー時のもの

工藤めぐみ 東宝芸能

ブログ 「O Samba é Minha Vida!! サンバな人生 from RIO」

フェジョン・プレット 公式WEB


Editor's Note

今回のインタビュー記事は、訳あって、以前おこなった2015年のインタビューを再構成して掲載しました。

工藤さんと初めてお話しをした後、こんな人こそ『情熱大陸』に出べきだと強く思ったものです。大学生活よりも、不便な暮らしの中でサンバを学ぶことを選んだその情熱、そして来年はリオオリンピック。絶好のタイミングでした。そんな風に思っていたところ、『情熱大陸』に関連した講演イベント「情熱教室」が開かれることを知ったのです。その中には、『情熱大陸』のプロデューサーも登壇する講演があり、それに申し込んだ私は、そのプロデューサーの執筆した本を読み、その本に書いてあった企画書の書き方を参考にして、工藤めぐみさんを『情熱大陸』で取り上げるべきだという企画書を持参して参加しました。講演の途中で「皆さんだったら誰を出したいですか?」と客席に問いかける時がありました。なんと良いフリをしてくれるのか。最初は隣の席の人と話してみてください、ということになり、隣の人に、企画書作ってきたんですよ、と話すと、いい!と言ってくれたので、全体から意見を募ったとき、手を挙げて(!)、学校の授業では全く手を挙げなかった私が意を決して手を挙げて、公開直談判をしたのです。正直、その場ではあまり良い反応は得られなかったのですが、講演が終わってからタイミングを見計らって持ってきた企画書をプロデューサーに手渡しすることができました。しかし、その後何も音沙汰無し。仕方ないです、講演でも毎月1000人ほどの取材対象者の企画書が上がると話していたし、その中から年に40回ほどの放送ですから。それから数か月、再びリオに渡航していた工藤さんから連絡が来て、『情熱大陸』の話が進んでいると言うではありませんか!なに!本当に?! それは私の企画書のおかげではなく、神様の力が働いたような巡り合わせにより、『情熱大陸』出演が決まったのです。事の詳細は2016年2月当時の工藤めぐみさんのブログをご参照ください。企画は動き出しても、カーニバルの映像が使えるかなど色々と課題はあって本当に放送されるのかドキドキワクワクしながら待っていました。そして、前の週の放送の最後、次週の予告が。「来週は、リオに愛された日本人、サンバダンサー工藤めぐみ」あのナレーターの窪田等さんの声でそんな感じのフレーズが流れた時、自分のことのように嬉しく、本当に感動しました。2016年2月28日『情熱大陸』サンバダンサー 工藤めぐみ 放送。感無量でした。

ついでにもう一つ逸話を。もう時間が経ったのでお話ししてよいと思うのですが、『情熱大陸』の製作関係の方から、現地ではサンバダンサー姿の工藤さんの写真しかあまり撮らなかったので、このインタビュー記事のトップの写真をオープニングタイトルに使わせてもらえないかと打診がありました。結局はやはり現地の雰囲気が伝わる写真が使われたのですが、もしかしたらこのインタビューの時の写真が、ティティ、ティーティーティー〜🎵 と言うメロデイにのせてTVに映ったかもしれなかったのでした。そんなこともあり、このインタビューは私にとっても大変思い出深い、夢を叶えてくれたようなインタビューです。(H)

知られざる名曲を現代に花開かせる

ピアニスト

広瀬悦子

写真・文 Hiroyuki Chiba



セルゲイ・リャプノフ『12の超絶技巧練習曲 op.11』

作曲家の名前と作品名からだけでは決して手に取る事がなかったであろうこの曲集を今聴いているのは、この人のおかげだ―

広瀬悦子さん。名古屋に生まれ、パリを拠点に国際的に活躍するピアニスト。

「ピアニストの人生がいくつあっても足りないくらいの曲がある」と言う中、なぜこの作品を2018年にリリースされたCDにおさめることを選ばれたのか。広瀬さんの歩んできた音楽との人生や世界を巡る旅のお話もうかがいながら、選曲に込めた想いをきいた。


母が与えた音楽に満ちた人生

8歳でアメリカ演奏旅行へ

音楽との出会いは生まれてすぐ。生後一ヶ月の時からお母さんが毎日クラシック音楽を聴かせてくれた。そして3歳からピアノに触れる。それは音楽だけでなく、広い世界で生きる人生を与えてくれることになった。

「母はアマチュアでピアノをやっていたのですが、私が生まれる前にチラシを見たスズキ・メソードの“母国語を覚えるように音楽を毎日繰り返し聴かせることで自然に音楽が身に付く”という考えに共感して朝から晩までクラシック音楽を聴かせてくれました。

私にピアノをやらせたかったということもあり、3歳の時にピアノを始めたのですが、スズキ・メソードには『テン・チルドレン』という毎年10人の子どもを選んでアメリカに一ヶ月間の演奏旅行に派遣するシステムがあります。私が8歳の時に初めて選ばれてアメリカへ行ったのが最初の海外渡航でした。一ヶ月の間に13、14回くらい演奏会をしてアメリカ各地を巡りました。


ピアノを離れると何もかも違うことが多すぎて、すぐに馴染めるものではなかったですね。ハンバーガーやバーベキューなどアメリカの食べ物はなかなか受付けずに一口くらいしか食べられず、痩せ細って帰った思い出があります。ただ、音楽を通じて心を開いてくれるというか、アメリカの人たちはとても盛り上げて褒めてくれるので、人とつながれるのは素晴らしいな、と感じました。あと、頻繁にコンサートで演奏するので、人前で演奏する楽しさやステージを怖がらなくなったことが大きかったですね。」


フランスでは「先生の言う通り」は✖️

10代になるとモスクワでのショパン青少年ピアノコンクール優勝をはじめ数々の国際コンクールで受賞、入学したパリの音楽院では首席で卒業するなど成績を残し、プロのピアニストへの道を切り開いていく。

「ロシアは素晴らしいピアニストを排出している国で、そこで評価されたことは、プロのピアニストになれるかなという自信が持てた出来事でした。今は近代的になっていますが、当時のモスクワはソ連が崩壊してまだ間もない頃で、小説に出てくるような薄暗く寒々しい雰囲気でした。そういう経験はロシア音楽を弾く上でもインスピレーションの基になっているので、その時代にロシアに行けたのは良かったと思っています。」


そしてピアニストとしての拠点となるフランスへ。


「母が仏文科だったのでフランスに行ったことがあり、家でフランス語の勉強を続けていたので、フランスという国が身近にありました。ドビュッシーやラベルなどフランスの音楽が好きで、ショパンも人生の半分をフランスで過ごしていたことによって、小さい頃からフランスに憧れがあり、フランスを留学先に選びました。


日本では先生の言うとおりに弾くことが良しとされるところがあるのですが、フランスだと先生が弾いてくれてそれを良いと思ってもそのまま弾いたら他人のコピーでしかない、自分の中で消化して自分の表現をしなければならないということを教わりました。個性や自分の意見を持つことが大切だということは実生活の中でも同じで、自分の考えや主張を持っていないと飲み込まれてしまうようなところがフランスにはあります。音楽家として生きていくには、個性や、“自分はこれが表現したい”というものが必要なので、ピアニストとしてフランスから良い影響を受けられたと思っています。」


憧れのピアニストの前で優勝

プロのピアニストとして第1歩を踏み出す

1999年、何年も練習と自己研鑽を続けてきた日々の努力が実ることとなる。パリ国立高等音楽院を審査員全会一致での首席卒業、そして憧れのピアニストの名を冠したコンクール、マルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール優勝。


「コンクールは必要なものだとは思うのですが、私自身は、音楽は個性や自分の表現したいものを出すものであり、点数で競うものではないという考えなのでコンクールが嫌いでした。でもアルゲリッチは、私が小さい頃から憧れていた人、私のアイドルだったので、その人の前で演奏できることが嬉しかったです。本当に来るのか不安に思いながらも、一次予選から全部聴いてくれて、勝った後もとてもやさしい言葉をかけてもらえて本当に幸せでした。そのコンクールがきっかけで、色々なところでコンサートをさせてもらえることとなり、私にとってピアニストとしてとても大きな出来事でした。」

*マルタ・アルゲリッチ 1941年生まれ アルゼンチン・ブエノスアイレス出身。世界で最も評価の高いピアニストの一人。日本とのつながりも深く、1970年の初来日以来度々来日、1998年からはアルゲリッチを総監督とする「別府アルゲリッチ音楽祭」が毎年開催されている。


ハプニングも多いピアニスト生活

現在はパリを拠点に世界各地で演奏を続ける日々。時には標高2800メートルの山で弾くこともあれば、頭を布で覆い耳を隠して弾くこともある。


「旅行は好きなのでできるだけ見て回りたいのですが、空港とホテルとコンサート会場しか行けないことも多いです。それでもたまに観光や買い物をする時間がある時は演奏に影響が出ない範囲でその国を見たいと思っています。特にどうしても見たかったのはイランで、音楽にはイスラムから影響を受けたものもあり、実際に見てみないとわからない色や光などを肌で感じられたのは、自分が音楽を表現する上で良かったです。


イランでは政府の人が服装をチェックしに来て、肌や髪、体のラインを出してはいけないし、ヘジャブをかぶって耳も隠してコンチェルトを弾かなくてはならず、聞こえづらいし暑くて大変で、普段自由に表現できる国でのありがたさを感じました。でも、イランの人々は文化的に教養もあり、ありがたく聴いてくれているのが伝わってきたので、どんな国でも音楽を通して感動を分かち合えるのは素晴らしいと感じました。」


旅にハプニングは付き物。ピアノの前に座る前に色々なことが起きる。


「オランダでコンサートをやる時に電車で行ったのですが、携帯電話を忘れてしまって、そんな時に電車が遅れて、主催者に連絡もできず、オランダ語もわからない、どこで弾くのかもよくわかっておらずどうしようか困ってハラハラしてしまったことがあります。他にはデュオで演奏する相手のチェロリストが飛行機のチケットが取れずに直前に着いてリハーサルをしないで弾かなければならなかった時もありますし、バイオリニストと一緒にコンサートをやった時には、バイオリニストのトランクが届かなくて、彼女は楽譜もドレスもスーツケースの中に入れていてコンサートまでに届くかわかりませんでした。ドレスは私のものを貸してあげて、楽譜は私が持っていたピアノ譜と一緒になっているものから拡大コピーして、バイオリンのパートをハサミで切って別の紙に貼る作業を何時間もやったこともあります。結局コンサート開始直前にスーツケースが届いたのですが・・・(笑)」


知られざる名曲を届ける

2018年にリリースした「セルゲイ・リャプノフ『12の超絶技巧練習曲 op.11』も各国を巡る日々があってこそ選曲につながった。


「他のピアニストが弾くような同じ曲ではなく、あまり知られていない隠れた名曲のような作品を取り上げていきたいというのは以前から思っている事で、これまでにもアルカンなどを取り上げてきました。そうすると、マニアの人から曲を勧められることがあるんです。オランダで演奏会を開いた際に、リャプノフのエチュードを勧められました。録音されたものがとても少ないし、音楽的にも私に合っているから全曲録音したらどうかと言われたのですが、もの凄く難しい曲だと知っていたので、私には関係ないものと思って流していました。一年程経ってから、改めて楽譜を見てみると、確かにこれならインスピレーションも広がって何か私にもできることがあるかもしれないと思って始めたところ、全部好きになってしまって、レーベルのディレクターの人に話をしたらそのアイディアを気に入ってくれて話が進みました。色々な方からアイディアを頂くので、その中から気に入った曲をやっていきますが、基本的にはあまり知られていない名曲を紹介していきたいという想いがあります。」


*2007年「風 〜ショパン&アルカンを弾く」をリリース。アルカンも知る人ぞ知る超絶技巧の難曲

300年続く価値を全ての人へ

「美しいものを見たり聴いたりすると心が豊かになりますし、私も演奏を通じて人にそう感じていただけたらいいなと思っています。心が疲弊してしまうと人生において重要な判断を間違ってしまうこともあると思うので、感動するものに触れる事は大事だと思います。私もボードレールの詩が大好きなんですが、詩を読むと違う場所へ連れて行ってもらえるというか、詩の雰囲気に包まれて幸せな気持ちになれるので、日々美しい芸術に触れるのは大事なことだと思います。」

* シャルル・ピエール・ボードレール 1821-1867 フランスの詩人、評論家。広瀬さんが特に好きなのは詩集『悪の華』


「クラシック音楽は200年、300年経っても人を感動させる価値を持っています。コンサート会場には若い年代の方は少ないので、若い人にももっと聴いてもらいたいと思っています。良い演奏に出会って少しでも何かを感じて欲しいですね。


コンサートに足を運べない方々のためには、こちらからうかがって聴いていただく活動を私も時々やらせていただいています。クラシック音楽というのは、特定の人だけでなく、どの人にも恩恵があるものだと思いますし、敷居無くみんなが享受できる環境になるといいなと願っています。


今回のリャプノフのCDは、『超絶技巧』というタイトルを聞いたらひいてしまうかもしれませんが、一曲一曲タイトルがつけられていて、練習曲というよりは詩集と呼びたいくらいそれぞれの曲が独自の世界を繰り広げていて、一曲一曲に物語性があります。自分の経験や思い出を重ね合わせて聴いていただくと聴きやすいのではないかと思います。」


クラシック音楽の恩恵を全ての人へ。隠れた名曲にも光を当て、現代に花開かせる。


「ピアノというのは、オーケストラに匹敵する程の、表現の可能性を無限に秘めた楽器で、その奥深い世界を一生かけて追求していきたいと思っています。」

Profile 広瀬悦子 /Etsuko Hirose

3歳よりピアノを始め、弱冠6歳でモーツァルトのピアノ協奏曲第26番「戴冠式」を演奏。1992年モスクワ青少年ショパン国際ピアノコンクール優勝、日本および台湾にて10数回のリサイタルを開催。ヴィオッティ国際コンクールとミュンヘン国際コンクールに入賞後、1999年マルタ・アルゲリッチ国際コンクールで優勝。1996年パリ・エコール・ノルマル音楽院、1999年パリ国立高等音楽院を審査員全員一致の首席で卒業し、併せてダニエル・マーニュ賞を受賞。世界各国でリサイタルや音楽祭に参加。2001年デュトワ指揮NHK 交響楽団との共演をはじめ、バイエルン放送響、オルフェウス室内管ほか国内外のオーケストラと数多く共演。2007年4月、ワシントンD.C. のケネディセンターでリサイタル・デビュー。コロムビアミュージックエンターテインメントやMIRAREからCDがリリースされている。スケールの大きな音楽作り、美しい音色、幅広いレパートリーが高い評価を集め、世界に活躍の場を広げる期待のピアニストである。 

プロフィール詳細
公式サイト

Instagram

【今後の国内での演奏予定】

印象派の巨人クロード・ドビュッシー~音楽と言葉で感じるひととき~

【日程】2018年11月22日(木)開場13:30/開演14:00

【会場】千葉市美浜文化ホール2F音楽ホール

【料金】2,000円(税込・全席指定)※就学前児入場不可

【出演】広瀬悦子(ピアノ)/田中泰(ナビゲーター)

公演詳細


撮影協力

ヤマハグランドピアノサロン名古屋

ヤマハ名古屋ビル4階に展開するヤマハグランドピアノのショールーム。ヤマハピアノアーティストサービス東京のコンサートチューナーが本社工場でこだわり抜いてセレクトした世界最高峰のラインナップを展示。

愛知県名古屋市中区錦1-18-28 ヤマハ名古屋ビル4階

営業時間10:30~19:00 (定休日 毎週火曜日 *火曜日が祝日の場合は営業)



Editor’s Note

広瀬悦子さんのことを知ったのは2016年のラ・フォルジュルネ東京でのことでした。

その後、あるコンサートで聴いた広瀬さんによる「リスト編曲 ベートーヴェン交響曲第五番〜運命〜」の圧倒的な演奏に、個人的な経験の中でピアノを聴いて初めて「またこの人の演奏でこの曲を聴きたい」という思いに駆られました。そしてまた別のコンサートでのこと。リストやショパンの曲を華麗に弾き、休憩後のコンサート後半は一時間近くほぼぶっ通しで演奏。拍手の中、再びピアノの前に座りアンコール曲へ。

最初の休符による一瞬の静寂の後、ダダダダンッと耳に聞こえきた時の驚きが印象に残っています。全身全霊をかけて弾いていたような圧巻の演奏の思い出から、「あれを今からやるのか!」と驚異的な体力、精神力に素人の私は衝撃を受けました。

今回インタビューを受けていただいたのは、コンサートを開催された地元名古屋。

撮影にご協力いただいたヤマハのショールームでは、何台ものグランドピアノに囲まれて、ピアノと共にたくさんの時間を過ごしてきた広瀬さんを撮るのにぴったりの環境でした。ピアノが綺麗すぎて周りの物が鏡のように映り込み、難しい環境でもありましたが。広瀬さんは撮影後、試弾もされ好感触を得られていらっしゃいました。お話させていただいた折に、あの衝撃的な思い出、リスト編曲運命のアンコールのことをお伝えすると、「あの曲は6ヶ月くらいかけて仕上げた大変な曲で、弾けるうちに弾いておきたかったから」と笑って教えてくれました。その気持ちは、私にもよくわかりました。(H)